半田晴久/深見東州 産経新聞連載第18回「教育の実像6」
「創造性」は、教育の第一義となるのか
いうまでもなく、教育の基礎を成すのは、学校教育。教育指針の根幹である文部科学省の「ゆとりのある生活からこそ真の創造性が生まれる」との見解には、甚だ疑問を感じざるを得ません。理由は、学校の教育の意義について、「創造性」に最も大切な価値観を置いていると受け取れるからです。以前にも書いたことですが、看過できない問題なので、説明の補足を含め、あえて取り上げます。
日本人にとっての創造性を言うならば、伝統的に、中国・朝鮮半島や欧米から渡来した素材を、まず謙虚に学び生活の中に取り入れる。そのうえで、生活に役立つように、便利で使いやすく工夫・加工してきた歴史があり、・創造性・には、そういうニュアンスが強かったはずです。
ところが、文科省が教育現場に求めている創造性の定義付けは、「欧米や古代中国における創造性や独自性を取り入れよ」との意向を強く感じます。
確かに米国人は創造的、独創的な発想をする国民性があり、ユニークなプレゼンテーションは得意です。歴史や国策、個人の生き方を見ても、米国人の長所はたくさんありますが、半面、独創的に人生を考えるため、自己中心的な生き方に走り勝ちです。それが過ぎると、誠実に相手のことを考えず、コロコロと約束やポリシーを変え、お互いにとっていい道をじっくり考え、継続していく約束やポリシーを貫く姿勢に欠けます。
危惧に過ぎなければよいが、文科省の言い分(見解)を鵜呑みにすれば、教育を通して、日本古来の国民性を変えようとしているのか。それとも、全国民は、欧米人のような・創造的な生き方・を行え、と言っているに等しい-との解釈になるのではないだろうか。
日本人の長所は、チームワークや団結力や実直で勤勉に努力して、誠実に学び続ける国民性。経済が少し駄目になったからといって、他国と比較し、追従しても物事の解決にはなりません。
極言すれば、洋の東西を問わず、個々の能力にかかわる創造性は、教育うんぬんの問題ではなく、まして政府(文科省)が介入する筋合いのものではない、と思います。
創造性というのは、教育の第一義になるのかどうか、改めて問いただすべきだ、との考えを強くしております。
みすず学苑 半田晴久
2003年6月26日 産経新聞